●六月の禅語

茶席の禅語(水無月)

2011年6月30日 (木)

独坐大雄峰

(どくざだいゆうほう)   『碧巌録』第二十六則

独り大雄峰に座す

獨立尊貴の意
大雄峰に座して、今ここに生かされ生きていることが、有り難く奇跡なのである。
どんな状況、状態においても、生かされている確固たる自分を掴み、
命の尊さ、自分の大切さを自覚する。

中国の唐代、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅僧に
ある僧が   「いかなるかこれ奇特の事」 と問う
百丈禅僧  「独り大雄峰に座す」           と答える

奇特・・・霊験、不思議なしるし、或いは特にすぐれていること
大雄峰・・・百丈禅師の住んでいた大雄山(別名・百丈山)の峰です。

2011年6月28日 (火)

涼風入草堂

(りょうふうそうどうにいる)

一陣の涼しい風が草庵に入ってきた様子。
どんな粗末な草庵であっても、
すがすがしい風は入ってくる。

2011年6月26日 (日)

白雲深處掩柴扉

(はくうんふかきところ さいひをおおう)

白雲深い自然の奥にて静かに暮らす。
山においても人里においても悠々としている白雲は、場所や時を選ばず、静寂にして自由自在。
世俗の喧騒の中においても心静かに悠々と風雅な趣きを楽しむ心境。

截断人間是與非  (じんかんのぜとひをせつだんして、)
白雲深處掩柴扉  (はくうんふかきところ さいひをおおう)     『大智禅師偈頌』

世間の煩わしい是非を謝して
白雲深い山で幽居する

柴扉 … 雑木や竹を編んで作った質素な門。転じて、わびずまい。世の煩わしさを避け、静かに暮らすこと

2011年6月25日 (土)

行舟緑水

(こうしゅう りょくすい)

舟は緑水を行く。
ゆったりと澄んだ大河を舟が行く情景は、
美しい自然の大いなる時の流と共に生きる人の姿の様です。

--次北固山下(北固山のもとにやどる)--    王湾
客路青山外   客路 青山の外
行舟緑水前   行舟 緑水の前
潮平両岸闊   潮は平らかにして両岸に闊く
風正一帆懸   風は正しくして一帆懸かる
海日生残夜   海日 残夜に生じ
江春入舊春   江春 旧年に入る
鄕書何處達   郷書 何れの処にか達せん
歸雁洛陽邊   帰雁 洛陽の辺

旅路は青い山の果て 
緑映る水を前にして 舟は行く
両岸広々と 潮 穏やかに満ち  
順風に帆を一つ掲げる
海上の夜は明けようと白みはじめ  
江は年の瀬から春めいている
故郷に宛てた便りは今何処か
帰り行く雁と 洛陽の辺りにか

2011年6月24日 (金)

流泉作琴

(りゅうせんをきんとなす)      

水のせせらぐ幽かな音を 琴の調べとする。
静かに流れる水は、大小の岩や石を洗いながら幽かな音をたてている。
その音、清々しく、いつしか人の心も洗ってくれている。
自然法爾の消息。
 

白雲為蓋   白雲を蓋と為し
流泉作琴   流泉を琴となす         『碧巌録』三十七則

2011年6月22日 (水)

杓底一残水

(しゃくていのいちざんすい) 

水は、私のものではありません。
水は尊く、身命そのものです。
必要な分を使い、柄杓に残った水は、また清流にお戻しする。
水は命の源であり、大切にし、また、分かち合う心も大切にしましょう。

杓底一残水  しゃくていのいちざんすい 
汲流千億人   ながれをくむせんおくのひと

道元禅師が、日頃仏前にお供えする水を汲む際、川の水が豊かであっても、川下の人々また子孫のためにと柄杓半分の水を川に返したという謂れによる。

2011年6月20日 (月)

遠山無限碧層層

(えんざんかぎりなく へきそうそう)

遠くまで連なる山々は相重なり、
その緑深い青色は、
何処までも、何処までも
限りなく続いている。

堪對暮雲歸未合、 対するにあたいす暮雲の帰って未だ合せざるに
遠山無限碧層層。 遠山限りなき碧層々       『碧巌録』第二十則
夕暮れに西へ西へと帰って行く片雲達は、まだ一つになりきれず、
遠く続く山々の碧は、幾重にも重なり限りなく層となっている。

一人前になろうと努力し、
一人前となっても安住してはおれぬ。
この遠くまで絶えることのない山々の碧のようにあり続けるけるために・・・。

2011年6月19日 (日)

竹有上下節

(たけにじょうげのふしあり)

竹には、節があり、上下の区別がありますが、その役割に、優劣の差はありません。
人の世も節操、節度があり、互いの心遣いによって、皆平等に調和するという意味です。

2011年6月18日 (土)

巌松無心風来吟

(がんしょうむしんかぜきたりてぎんず)

大きな岩に根をはっている松に風が吹き、
無心で風に応じて梢を鳴らしている。
色も音も持たない無心の風と
無心の松が奏でる松韻は、
無策無心 故に美しいのである。
無策無心の自然法爾のはたらきに禅者の境涯を表している。

2011年6月15日 (水)

雨過青山緑

(あめすぎて せいざんみどり)

雨が降り 山洗われ、生き生きと山の緑が蘇る。

心についた埃や塵を洗い流した、清浄な心境。

その清浄なるところが内なる仏性の現れである。

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