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2011年7月

2011年7月30日 (土)

明歴々露堂々

(めいれきれきろどうどう)
すべては、歴々として明らかであり、隠し立てなく目の前に堂々と露(あらわ)れている。
真理は、深遠な処に秘在していると探さずとも、ありのままの姿に現れています。
それに気付く曇りのない心が大切であります。

2011年7月29日 (金)

泣露千般草

(つゆになく せんぱんのくさ)

山の千草が泣いているかのように、露に打ちふしている。
寒山の美しい澄んだ心境です。

泣露千般草 露に泣く千般の草
吟風一様松 風に吟ず 一様の松  『寒山詩』

くさぐさの草はしっとりと下りた露の下に泣き 
どの松の梢も皆風に鳴って同じ歌を歌っている

可笑寒山道、而無車馬蹤。笑うべし寒山の道、しかも車馬の蹤なし。
聯溪難記曲、疊嶂不知重。連渓曲を記し難く、畳嶂重を知らず。
泣露千般草、吟風一樣松。露に泣く千般の草、風に吟ず一様の松。
此時迷徑處、形問影何從。この時迷径に迷う処、形は影に問う何れ従りかせんと

2011年7月27日 (水)

他不是吾

(たはこれわれにあらず)

他者にしていただいたのでは、私が為ることにならない。

ここ一点、自分を蔑ろにせず、

ここ一点、自分でするところを履き違えないようにしっかりやる。

他不是吾(たはこれわれにあらず)
更待何時(さらにいずれのときをかまたん)    道元『典座教訓』

自分がやらずに誰がやる。今やらずに何時やる。今日という日がある。

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たった一人しかない自分を
たった一度しかない一生を
ほんとうに生かさなかったら
人間、生まれてきたかいがないじゃないか (山本有三『路傍の石』より)

2011年7月26日 (火)

松下汲清泉

(しょうか せいせんをくむ)

松の下に湧く清らかな泉の水を汲む。

松の木の下に 絶えず湧く清水を汲んで、茶を煎る。
暫し世俗を離れ、自然を楽しむ、風流で心地のよい様。

2011年7月25日 (月)

渓泉清流

(けいせんせいりゅう)

谷あいに湧く山水が
静けさの中
細くも清らかに流れている。

茶を点てる水
第一を山水、第二を江の水、第三を井戸水     唐の陸羽は『茶経』

茶煙出戸深

(さえんとをいでてふかし)

茶のために沸かした煙が
家の外へと流れて出て、
ゆっくりゆらぎながら遠くへと及んで行く。

隔たりのない広がりと、深遠とした趣。

2011年7月24日 (日)

溪聲洗耳清

(けいせいみみをあらいてきよし)

耳を澄ませば
谷を流れる水の音
清々と心も洗われていく。
清浄な谷川の流れは耳する者の汚れをも洗い清め、
ただただ流れ澄み続けている。
耳から耳へ音を流し閉ざしがちな心にも
清流の音は、琴線に触れ、浸み入ってくる。

溪聲洗耳清  渓声耳を洗いて清く、
松蓋触眼緑  松蓋眼に触れて緑なり

2011年7月22日 (金)

清影揺風

(せいえいかぜにゆらぐ)

月の光 澄み渡り、
風の吹くまま そよそよと
竹も 影を伴い揺れている

2011年7月21日 (木)

泉聲中夜後

(せんせいちゅうやののち)

泉から湧き出る水の瀬音は、
夜の深まった頃、特に冴え冴えと響き渡る。
泉聲中夜後。  泉声中夜の後
山色夕陽時。   山色夕陽の時     『虚堂録』巻三
泉聲は、深夜に最も冱へ響き
山色は、夕陽に映じたる時が最も麗しい。
交わりは水のように、働きは山のように成れ

2011年7月20日 (水)

松風供一啜

(しょうふう いっせつに きょうす)

松風にも温かいお茶を一杯さしあげて共に喫する

瓦瓶破曉汲清冷、瓦瓶、破暁に清冷を汲み、
石鼎移來壞砌烹。石鼎、移り来て壊砌に烹る。
萬壑松風供一啜、万壑の松風、一啜に供し、
自籠雙袖水邊行。 自ら双袖を籠し水辺に行く       『介石禪師語録』
※「壑」は「谷」の意。萬壑(ばんがく)は多くの谷

多くの渓谷に響く松風を、ひと啜りにするとは、一味平等の意。
「一口吸盡西江水」と同じ境地。

2011年7月19日 (火)

一口吸尽西江水

(いっくにきゅうじんす さいこうのみず)  『馬祖語録』、『龐居士語録』他

大河の水を一口で飲み尽くす。
生半可な状態に停まらず、余すところなく一切を吸収し、
天地万物と一体となり無になれ。

一口吸尽西江水  一口に吸尽す西江の水
洛陽牡丹新吐蘂    洛陽の牡丹 新たに蘂(ずい)を吐く   『龐居士語録』

一切を飲み尽くし、絶やされた世界から、忽然と大輪の牡丹の花が咲く。
無から有が生まれ出てくる。
従来の悪地悪悟を蕩盡し、眞箇脱落の境界を、牡丹に喩へている。

利休は古渓和尚に参じて、この「一口吸盡西江水」の語によって悟りを開いたといわれている

2011年7月18日 (月)

竹葉々起清風

(たけようよう せいふうをおこす)

風に吹かれて竹の葉が、
さらさらとふれあいながら、
清らかな風を送っている。

誰知三隱寂寥中
因話尋盟別鷲峰
相送当門有脩竹 
為君葉々起清風   
虚堂智愚(きどうちぐ)禅師 『虚堂録』
誰か知らん三隠寂寥の中
話に因って盟を尋いで鷲峰に別れんとす
相送りて門に当たれば 脩竹有り
君が為に 葉々 清風を起こす

2011年7月15日 (金)

殿閣生微涼

(でんかくびりょうをしょうず)

風は宮殿の中を吹き渡り、涼しさ心地よく、
風に吹かれた身も心も清涼。

〔文宗皇帝、夏日聯句〕
人皆苦炎熱、(人は皆炎熱に苦しむも)我愛夏日長。(我は火日の長きを愛す。) (帝)
薫風自南來、(薫風南より来たり)     殿閣生微涼。(殿閣微涼をしょうず)       (柳公権)

2011年7月14日 (木)

銀河落九天

(ぎんがのきゅうてんよりおちる)

銀河が天空より流れ落ちる

煩悩や心の汚れが天から勢いよく洗い落とされ、
さっぱりと清々しい心持ちとなる。

--望廬山瀑布(廬山の瀑布を望む)--   李白
日照香爐生紫烟   日は香炉を照らして 紫烟生ず
遙看瀑布挂長川     遥かに看る 瀑布の長川を挂くるを
飛流直下三千尺   飛流 直下 三千尺
疑是銀河落九天     疑うらくは是 銀河の九天より落るつかと
日の光は香炉峰を照らして、紫の霞が立ち
遥か遠くに見える滝は、長い川を立て掛けたように流れ落ちている。
飛び下る流れは まっすぐに三千尺
まるで天空から、銀河が落ちてきたかのようだ。

※九天直下という言葉はこの詩にもとづく。

2011年7月13日 (水)

松直棘曲

(まつなおく いばらまがれり)

松は、直なのが本性、棘は曲がるのが天然。
お互いに真似したところで、その性を達することはできない。
松は松、棘は棘、種々様々、それぞれ色々違うことが当たり前。

2011年7月12日 (火)

不風流処也風流

(ふうりゅうならざるところ またふうりゅう)

不風流のやうだが、その不風流な處に、得も云はれぬ味いがある
風流さ満々としておらず、力の抜けた処、不恰好さにもまた味わいがある。

有意気時添意気、意気有る時は意気を添え、
不風流処也風流  風流ならざる処、也た風流   『五灯会元』他
威勢の良いときにさらに威勢が加わり、
作為のない殺風景なところに風流なおもむきがある。

意気軒昂たるところ貫き抜けた後の深い味わい。

2011年7月11日 (月)

丈夫意気自衝天

(じょうぶのいき おのずからてんをつく)

一人前の人間には、誰にでも皆、天を衝くほどの意志や気力がある。
丈夫には自ずから衝天の気有り
如来の行処に向かって行ずること莫れ   
同安禅師
丈夫、すなわち一人前の人間には、元来勢いが誰にでもある
仏道を求めるにあたっては、自らの貴い仏性を信じ、真如来のあり方を真似することなかれ

2011年7月10日 (日)

碧潭清皎潔

(へきたんきよくして こうけつたり)

どこまでも透明な水をたたえ
底のない青く深い淵。
汚れのない清浄無垢な心境。

吾心似秋月   吾がこころ秋月にたり
碧潭清皎潔       碧潭清くして皎潔たり
無物堪比倫   物比倫にえたるはなく
教我如何説   我をして如何が説かしめん    『寒山詩』
吾が心は秋の名月のように澄み、
また青々と透き徹る深
い水のごとき清々とし
これにならぶことのできるものは他に無い。
私には、これを説き伝える術があるものか。


2011年7月 9日 (土)

不住青霄裡

(せいしょうりにもじゅうせず)

曇りのない澄んだ青空に、留まることはない。

やっと澄み渡った青空の下へでることができましたが、
また、空模様は変わっていくものです。
文字や言葉に拘泥せず、
佛地にさへ足を停めず。

直透萬重關  直に万重の関を透り、
不住青霄内  青霄の内にも住まらず  『臨済録』
幾重も続く難関を透り
曇りない澄み渡る青空のような尊い境地に辿り着いても、安住してはおれぬ。
そこに囚われず、精進し続けよ。

鳶飛魚躍

(えんぴぎょやく)

「鳶は飛んで天にいたり、魚は淵に躍る」『詩経しきょう』大雅旱麓

から 縮め作られた語句

天の道理のもと、自然の本性に従い、すべてのものが自由にその生を楽しんでいる。

また、君主の恩徳が広く及び、人々がその能力などによって、それぞれ所を得ているたとえ。

2011年7月 8日 (金)

漁夫生涯竹一竿

(ぎょふのしょうがいたけいっかん)

漁夫は生計を立てるのに釣り竿が一本だけあればいい。

釣り竿一本さえあれば生きていける。
必要以上の収穫、蓄えをえようとすると、かえって心は囚われて不自由になって行く。
簡素な暮らしに、心の働き、奥深さをみることができる。

山僧活計茶三畝 山僧が活計(かっけい)茶三畝(さんうね)、
漁夫生涯竹一竿 
漁夫の生涯竹一竿
山僧は、わずか茶畑を畝、
漁夫は、竹竿だけで暮らしている。
肩書きとか華美な衣や高価な道具は、本来無用。
歩む一つの道があれば、十分


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~大漁~
    金子みすず

朝焼け小焼けだ大漁だ
オオバいわしの大漁だ}
浜は祭りのようだけど
海の中では何万のいわしの弔いするだろう
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2011年7月 7日 (木)

星河清涼風

(せいがりょうふうにきよし)

夏の夜、天を仰げば、流れるような星の川、
時折吹く涼風に、身も心も清らかになっていく。

水自竹邊流出冷

(みずは ちくへんよりながれいでて ひややか)

水は叢竹(そうちく)の下をくぐり抜けて冷やか

竹との出会いにより、水が冷やかとなる。
自然の縁に順い、用をなし、事をなし、移り変わって行く姿
人も環境や出会いにより変わっていく
心の出所あり様を見つめ、なすべきことをなしていく。

水自竹辺流出冷、 (水は竹辺より流れ出て冷く)
風従花裏過来香。 (風は花裏より過ぎ来たって香し)

2011年7月 5日 (火)

滅却心頭火自涼

(しんとうを めっきゃくすれば ひもおのずからすずし)

無念無想の境地に至れば、火も熱くは感じなくなる。
※甲斐恵林寺の住職 快川紹喜が織田信長により焼き討ちにあい、この言葉を残し、火中に死んだことで有名。

苦難にあっても ありのままを冷静に受けとめ超越した境地に至れば、
苦を感じることはない。

安禅不必須山水   安禅は必ずしも山水を須いず 
滅却心頭火自涼   心頭を滅却すれば火も自ずから涼し  『碧巌録』
坐禅の場は山水である必要はない。
場を選ばずとも、無心に徹することができれば、熱さをそのまま受け止めて澄み切った境地になれる。

雲悠々水潺々

(くもゆうゆう みずせんせん)

青空に雲が悠然として浮かび、
水はさらさらと流れ続けている。
妨げるものない自由でゆったりとしている雲と
一時も休まず円滑に流れ続けている水      
無常の世にあって、雲のように、水のようにありたい

2011年7月 3日 (日)

青山元不動 

(せいざんもとふどう)

堂々として動ずるところがない泰然自若とした山の姿。
雨に煙り 靄や雲で姿見えずとも、歴然と山はそこにある。
人にも変わらぬ本来の姿があり、見え隠れしていても、失ったり、なくなるわけではない。

青山元不動 青山元動ぜず
浮雲任去來  浮雲の去來するに任す  『五灯会元』巻四
青山は動かず
雲は気ままに消えたり現れたりしている。

本来安定不動なる本分底あるに、
衆生は自分勝手に凡聖迷悟などと、邪魔な雲を起こしているのだ

2011年7月 2日 (土)

夏雲多奇峰

(かうん きほうおおし)

夏は、入道雲が峻烈な峰のように湧きたつ
青空と刻一刻と変化して行く夏雲の織り成す、夏の雄大な天の光景。

~四時~  陶淵明
春水満四沢  春水、四拓に満つ
夏雲多奇峰  夏雲、奇峰多し
秋月揚明輝  秋月、明輝を揚げ
冬嶺秀孤松  冬嶺、孤松秀ず

春には、雪解け水で四方の沢が満ち
夏には、入道雲が峻烈な峰のように湧きたつ
秋には、月が、澄み渡る夜空の中天に輝き
冬には、雪の嶺に聳える松の姿が際立っている

※この詩は、陶淵明作とする説と 顧愷之(こがいし)作とする説がある。 顧愷之「神情詩」にも同句があり。

2011年7月 1日 (金)

白雲抱幽石

(はくうんゆうせきをいだく)

山深い峡谷に湧き出でる白い雲が、
幽玄な巨石の山肌を静かに包み込んで行く。
その壮大な天上の光景から、深い慈しみさえ伝わってくる。

『寒山詩』
重巌我ト居   重巌に我れト居す
鳥道絶人跡  鳥道人跡を絶す。
庭際何所有  庭際何んの有る所ぞ、
白雲抱幽石  白雲幽石を抱く。
住茲凡幾年  ここに住むことおよそ幾年、
屡見春冬易  しばしば春冬のかわるを見る。
寄語鐘鼎家  語を寄す鐘鼎(しょうてい)の家、
虚名定無益  虚名定まらず益無し

幾重にも岩山が重なる山深い峡谷に、わたしは居を定めた。
鳥だけが訪れ来るような山中の険しい道は人の足跡もない。
自然の中にいて庭といえるのならば、
向こうにそそり立つ岩を包み込む 白い雲の幽邃な景色である。
ここに住み、どれほどの年になろうか
幾度となく春から冬へと移り行く季節を見てきた。
ひと言申し上げるなら、豪奢な暮らしをする人々の世は、
名声や栄華は、移ろいやすく、心虚しく用をなさぬ儚いものである。

白雲抱幽石、 (白雲は幽石を抱き)
綠篠媚清漣。  (緑篠は清漣に媚ぶ)   南朝宋の謝靈運(384~433)の詩「過始寧墅」

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