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2011年6月

2011年6月30日 (木)

独坐大雄峰

(どくざだいゆうほう)   『碧巌録』第二十六則

独り大雄峰に座す

獨立尊貴の意
大雄峰に座して、今ここに生かされ生きていることが、有り難く奇跡なのである。
どんな状況、状態においても、生かされている確固たる自分を掴み、
命の尊さ、自分の大切さを自覚する。

中国の唐代、百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅僧に
ある僧が   「いかなるかこれ奇特の事」 と問う
百丈禅僧  「独り大雄峰に座す」           と答える

奇特・・・霊験、不思議なしるし、或いは特にすぐれていること
大雄峰・・・百丈禅師の住んでいた大雄山(別名・百丈山)の峰です。

透過雲関

(とうかうんかん)

雲門の関を通過する。雲門禅師の境地に至って、はじめて通過できる関。
この入り口を通らねばならない。通らなければ中に入れない。

雲門禅師は、中国の唐の時代(949年没)の禅僧

大徳寺開山の宗峰妙超禅師 (大灯国師)は師より「雲門の関」の公案を与えられ、
三年にわたる修行の後、雲門の「関」を透過し、悟りの境地を得たという。そのときの境地を詩偈にした。

一回透過雲関了。 一回〈ひとたび〉雲関を透得し了(おわ)って
南北東西活路通。 南北東西 活路通ず
夕処朝遊没賓主。 夕処朝遊 賓主を没し
脚頭脚底起清風。 脚頭脚底 清風を起す

ひとたび雲門の関を透過し終わると、
東西南北どこへも道は通じ、自由自在の境地に抜け出る。
朝夕に関係なく、客、亭主の区別もなく、迷い悟りも無い。
一歩一歩、清新の気が生じすがすがしい。

2011年6月28日 (火)

涼風入草堂

(りょうふうそうどうにいる)

一陣の涼しい風が草庵に入ってきた様子。
どんな粗末な草庵であっても、
すがすがしい風は入ってくる。

2011年6月27日 (月)

香巌撃竹

(きょうげんぎゃくちく)

小石が竹に当たる音の響き

香厳智閑(きょうげんちかん)禅師が、道を掃除していた時、
偶然飛んだ小石が竹を撃ち、その竹の澄んだ音が悟りの機縁となった。
人や経典から教えられるのでなく、自分の経験で悟りを得なければならないという、禅の綱領を示した故事の一つ。

秀才の誉れ高い香厳は、ある時、師匠から
「君は聡明で物知りだ。君が生まれてから習い覚えたお経の注釈などでなく、
  君の父母も生まれていない前のことを一句言ってみよ」
との問いを受けるが、香厳は、答えることができなかった。
落胆して全ての書物を焼き捨て、武當山にこもって一人修行する。
年月を経たある日、一所懸命に道を掃除していた時、偶然飛んだ小石が竹を撃ち、その音を聴いて香厳は悟を開いたのであった。

2011年6月26日 (日)

白雲深處掩柴扉

(はくうんふかきところ さいひをおおう)

白雲深い自然の奥にて静かに暮らす。
山においても人里においても悠々としている白雲は、場所や時を選ばず、静寂にして自由自在。
世俗の喧騒の中においても心静かに悠々と風雅な趣きを楽しむ心境。

截断人間是與非  (じんかんのぜとひをせつだんして、)
白雲深處掩柴扉  (はくうんふかきところ さいひをおおう)     『大智禅師偈頌』

世間の煩わしい是非を謝して
白雲深い山で幽居する

柴扉 … 雑木や竹を編んで作った質素な門。転じて、わびずまい。世の煩わしさを避け、静かに暮らすこと

2011年6月25日 (土)

行舟緑水

(こうしゅう りょくすい)

舟は緑水を行く。
ゆったりと澄んだ大河を舟が行く情景は、
美しい自然の大いなる時の流と共に生きる人の姿の様です。

--次北固山下(北固山のもとにやどる)--    王湾
客路青山外   客路 青山の外
行舟緑水前   行舟 緑水の前
潮平両岸闊   潮は平らかにして両岸に闊く
風正一帆懸   風は正しくして一帆懸かる
海日生残夜   海日 残夜に生じ
江春入舊春   江春 旧年に入る
鄕書何處達   郷書 何れの処にか達せん
歸雁洛陽邊   帰雁 洛陽の辺

旅路は青い山の果て 
緑映る水を前にして 舟は行く
両岸広々と 潮 穏やかに満ち  
順風に帆を一つ掲げる
海上の夜は明けようと白みはじめ  
江は年の瀬から春めいている
故郷に宛てた便りは今何処か
帰り行く雁と 洛陽の辺りにか

2011年6月24日 (金)

流泉作琴

(りゅうせんをきんとなす)      

水のせせらぐ幽かな音を 琴の調べとする。
静かに流れる水は、大小の岩や石を洗いながら幽かな音をたてている。
その音、清々しく、いつしか人の心も洗ってくれている。
自然法爾の消息。
 

白雲為蓋   白雲を蓋と為し
流泉作琴   流泉を琴となす         『碧巌録』三十七則

2011年6月23日 (木)

千山添翠色

(せんざんすいしょくにそう)

見渡す限りの山々に鮮やかな翠が見える

若葉が萌えいずる初夏の風景。

中国唐時代の詩人李賀の「暁は涼しく、暮れは涼しく、樹は蓋の如し、千山の濃緑雲外に生ず。」による。

 ---河南府試十二月楽詞並閏月 四月---   李賀               

暁涼暮涼樹如蓋   暁涼(ぎょうりょう) 暮涼(ぼりょう) 樹蓋の如し  
千山濃緑生雲外   千山  濃緑(のうりょく)  雲外(うんがい)に生ず
依微香雨青氛氳   依微(いび)たる香雨  青氛氳(せいふんうん)たり
膩葉蟠花照曲門   膩葉(じよう)  蟠花(ばんか)  曲門(きょくもん)を照らす
金塘閒水揺碧漪   金塘(きんとう)の閒水(かんすい) 碧漪(へきい)揺ぐ  
老景沈重無驚飛   老景(ろうけい) 沈重(ちんちょう)にして驚飛(きょうひ)なし
堕紅残萼暗参差   堕紅(だこう) 残萼(ざんがく) 暗くして参差(しんし)たり

夜明け、日暮れは涼しく、天が樹木に覆われているようだ
遠く連なるの山々が緑濃くして  雲を覗いている
細雨は香しく煙り、青々とした息吹に満ちて
艶々輝く葉も花房も 紆余として門に映える
石だたみの堤のしずかな水は 緑のさざなみを揺るがせ
春の終わりゆく景色は、こんもりと落ち着いて 驚き乱れ落ちる花はない。
堕ちた花や残った萼が暗暗として入り交じっている

2011年6月22日 (水)

杓底一残水

(しゃくていのいちざんすい) 

水は、私のものではありません。
水は尊く、身命そのものです。
必要な分を使い、柄杓に残った水は、また清流にお戻しする。
水は命の源であり、大切にし、また、分かち合う心も大切にしましょう。

杓底一残水  しゃくていのいちざんすい 
汲流千億人   ながれをくむせんおくのひと

道元禅師が、日頃仏前にお供えする水を汲む際、川の水が豊かであっても、川下の人々また子孫のためにと柄杓半分の水を川に返したという謂れによる。

2011年6月21日 (火)

向南見北斗

(みなみにむかってほくとをみよ)

目先のことに たやすく飛びつかず、
真の目的をしっかり見据えていること。

2011年6月20日 (月)

遠山無限碧層層

(えんざんかぎりなく へきそうそう)

遠くまで連なる山々は相重なり、
その緑深い青色は、
何処までも、何処までも
限りなく続いている。

堪對暮雲歸未合、 対するにあたいす暮雲の帰って未だ合せざるに
遠山無限碧層層。 遠山限りなき碧層々       『碧巌録』第二十則
夕暮れに西へ西へと帰って行く片雲達は、まだ一つになりきれず、
遠く続く山々の碧は、幾重にも重なり限りなく層となっている。

一人前になろうと努力し、
一人前となっても安住してはおれぬ。
この遠くまで絶えることのない山々の碧のようにあり続けるけるために・・・。

2011年6月19日 (日)

竹有上下節

(たけにじょうげのふしあり)

竹には、節があり、上下の区別がありますが、その役割に、優劣の差はありません。
人の世も節操、節度があり、互いの心遣いによって、皆平等に調和するという意味です。

2011年6月18日 (土)

巌松無心風来吟

(がんしょうむしんかぜきたりてぎんず)

大きな岩に根をはっている松に風が吹き、
無心で風に応じて梢を鳴らしている。
色も音も持たない無心の風と
無心の松が奏でる松韻は、
無策無心 故に美しいのである。
無策無心の自然法爾のはたらきに禅者の境涯を表している。

2011年6月17日 (金)

雲深不知処

(くもふかくしてところをしらず)

我に在る佛性、我自ら知らずの意。

--尋隠者不遇(隠者を尋ねて遇わず )--     賈島(かとう)唐代の詩人
松下問童子   松下 童子に問うに
言師採薬去   言う「師は薬を採りに去けり」と。
只在此山中   只だ此の山中に在らん
雲深不知處   雲深くして処を知らず

松の木下で童子に尋ねると、
童子は言った。「先生は薬を採りに行かれました」
この山中におられるのだろうが、
雲が深くて行方はとてもわからない。

2011年6月16日 (木)

驀直去

(まくじきこ)      『無門関』第三十一則

わき目をふらず真っ直ぐに行け。
第二念に渉るな、差別観に墮するなの意。

2011年6月15日 (水)

雨過青山緑

(あめすぎて せいざんみどり)

雨が降り 山洗われ、生き生きと山の緑が蘇る。

心についた埃や塵を洗い流した、清浄な心境。

その清浄なるところが内なる仏性の現れである。

2011年6月14日 (火)

雨滴聲

(うてきせい)

鏡清雨滴声
名前にしがみつき分別弁別せず、雨是雨である。

心で受けた現象を二念・三念へと発展させてしまうことが、
生まれながらにもっている清明な鏡(魂)を曇らせ、歪め、傷つけてしまう。
自己本具の明鏡を払い清め とり戻すこと怠らず。

苦が怒りとなるように、不安、悲しみ、混乱等起こすのは、自分の心のありようがそうさせる。
真っ直ぐに受けたものを次々といたずらに心動かし、妄想し、
また言葉にしがみつき混乱して、
執着の連鎖で身を縛ることを戒めている。
我のいない処、雨は滴り落ちている。

鏡清問僧。門外是什麼聲。(鏡清 僧に問う。門外これ何の声ぞ)
僧云。雨滴聲。                (僧云う。雨滴声)
清云。衆生顚倒迷己逐物。(清云う。衆生顛倒して己に迷いて物を逐う。)  「碧巌録」第四十六則
鏡清禅師が弟子の僧に尋ねた。「門の外に聞こえるのはあれは何だ。」
弟子の僧は答えた。「はい、あれは雨だれの音です。」
すると鏡清禅師は、「世の人も今のお前と同じように、物ばかりを追っかけ、自分を見失う。」と嘆かれた。

鏡清道怤(きょうせいどうふ)禅師・・・雪峯義存(せっぽうぎそん822~908)唐末五代の禅師の弟子

2011年6月13日 (月)

一水四見

(いっすいしけん)   『摂大乗論釈』

一つの水を、
天人は瑠璃と見、
人間は飲み物と見、
餓鬼は血と見、
魚は住処と見る。
各立場によって、見を異にするをいう。

唯識のものの見方。認識の主体が変われば認識の対象も変化することの例え。

唯識・・・八種類の〈識〉によって成り立っているという大乗仏教の見解の一。
五感に対する識別作用(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、二層の無意識(末那識/まなしき・阿頼耶識/あらやしき)を指す。

2011年6月12日 (日)

山水有清音

(さんすいに せいおん あり)

山や川、自然には、澄んだ清らかな音があるの意。
人為のない、ありのままの世界が奏でる清浄な響き。

--招隠詩--             左思(さし)西晋の詩人

杖策招隱士。   策を杖いて隠士を招ねんとするに、
荒塗橫古今。   荒塗は古今に横る。
巖穴無結構。   巌穴に結構無きも、
丘中有鳴琴。   丘中に鳴琴あり。
白雪停陰岡。   白雲は陰岡に停まり、
丹葩曜陽林。   丹葩は陽林を曜らす。
石泉漱瓊瑤。   石泉は瓊瑤を漱ぎ、
纖鱗或浮沈。   繊鱗も亦た浮沈す。
非必絲與竹。   糸と竹とを必するに非ず、
山水有清音。   山水に清音有り。
何事待嘯歌。   何ぞ事として嘯歌を待たん、
灌木自悲吟。   灌木は自から悲吟す。
秋菊兼餱糧。   秋菊は餱糧を兼ね、
幽蘭間重襟。   幽蘭は重襟に間わる。
躊躇足力煩。   躊躇して足力煩う、
聊欲投吾簪。   聊か吾が簪を投ぜんと欲す

木の枝をついて隠者(仙人)を訪ね行くと、
荒れた道が人も通らぬまま塞がっている。
岩穴の住まいには立派な家などないが、
丘から琴の音が流れてくる。
白い雲が山の北の丘に停まり、、
赤い花が山の南の林に輝くように咲いている。
岩清水は美麗な玉のように石を洗い清め、
小さな魚が浮き沈みし泳いでいる。
管弦を用いるまでもなく、
山や川には清らかな音色がある。
どうして歌を謡う必要があろうか、
灌木が風に吹かれ、哀調を帯びて詩歌を吟じている。
秋菊の花は食用ともなり、
ひっそりと咲く蘭は重ね襟の飾りにもなる。
あれこれと歩き続けるうちに、足がつかれてしまった。
暫く、位を捨忘れ、この地にいたいものだ。

※「繞籬山水有清音。」(籬を繞る山水に清音あり)『宏智禪師廣録』

2011年6月11日 (土)

雲無心以出岫

(くもむしんにして くきをいず)

雲は無心に、山のくぼみから湧き出る。

禅僧の自己を忘じた日常一切の起居動息。
何事にも束縛されず、自然に従って悠々と生活することの喩え。

雲無心以出岫  (雲無心にして岫を出で)
鳥倦飛而知還。(鳥飛ぶに倦んで還るを知る)  陶淵明「帰去来の辞」
雲は無心で山の洞穴からわき起こり、
鳥は十分に飛び 飽きてねぐらに帰ることを知る。

岫・・・谷あい、山の洞穴。山の斜面やがけにある岩穴の意。

2011年6月10日 (金)

聖朝無棄物

(せいちょうに きぶつなし)

優れた朝廷のもと 万民皆その処を得て業を楽しむ。天下泰平の世。

命ある物、生なき物、すべて、余計な物や捨てられるような物はない。
一切万物、生かしきる。

--客亭--           杜甫
猶曙色秋窗、  秋窓なお曙色、
落木更高風。  落木さらに高風。
日出寒山外、  日は出づ寒山のほか、
江流宿霧中。  江は流る宿霧の中。

聖朝無棄物  聖朝、棄物なし
衰病已成翁。  衰病すでに翁となる。
多少殘生事、  多少殘生の事、
飄零任轉蓬。  飄零(ひょうれい)、轉蓬(てんぽう)にまかす。

秋 窓がまだ曙の色を帯びている。
木の葉が落ちつつあるのに更に風が高く吹いている。
寒空の山の上から太陽が出て
まだ はれぬ霧の中を江は流れている
聖代には うち捨てられて おかれるものなどないのであるが、
老衰の自分は、疾病でなにごとも なすことなく
翁となってしまった。
老いさき いかほどの事があろうが、
風に吹かれ、落ちてころがり行くに任せる漂泊の旅人の身にとどまる。

2011年6月 9日 (木)

水上青々翠

(すいじょうせいせいたるみどり)

水上には青々とした美しい水草

はかない世にあっても、初夏の息吹が輝いて、その美しさを呈している。

水上青々翠  (すいじょうせいせいたるみどり)
元来是浮萍 (がんらいこれふひょう)   「禅宗頌古聯珠通集(ぜんしゅうじゅこれんじゅつうしゅう)」
水面が青々とした美しい翠をしている。
そもそもこの美しい色は、浮き草なのです。
  

水に任せ定まるところを知らない浮き草(萍)は、
浮き世を語ることなく、
あちらへこちらへと浮遊しながらも鮮やかな美しさを具えている。

2011年6月 8日 (水)

曲尺不曲

(きょくしゃくまがらず)

曲尺(かねじゃく)は曲っているのが本来で、その性を曲げていない。

2011年6月 7日 (火)

山是山 水是水

(やまこれやま みずこれみず)    『雲門広録』、『大慧武庫』、『宛陵録』

山は山、水は水で、各その本分を示している。

ありのままの山、ありのままの水を見よ。
山の本質が山であり、水の本質が、水である。

上堂云。諸和尚子莫妄想。(上堂云く。諸の和尚子、妄想するなかれ。)
天是天地是地。(天は是れ天、地は是れ地、)
山是山水是水。(山は是れ山、水は是れ水 )
僧是僧俗是俗。(僧は是れ僧、俗は是れ俗なり)
良久云。與我拈案山來看。(良久云く。我ために案山拈じ来たり看よ) 〔雲門広録、巻上〕
案山・・・禅宗で、寺の前面・正面にある山をいう。主山に対して、その手前にある低い山。

2011年6月 6日 (月)

清風在竹林

(せいふうちくりんにあり)

清らかな風が竹林に吹いている。
竹林には人の俗気を掃き清めるような、奥深く清浄な風情がある。

※旅立つ弟子を見送る際に、虚堂智愚(きどうちぐ)禅師が詠った一節を 短くした語句。
相送当門有脩竹  (相送りて門に当たれば脩竹有り、)
為君葉々起清風  君が為に葉々清風を起こす。)
別れの時、門まで見送りに出ると 高く伸びた竹薮から
清々しい風が起こり、一葉一葉がさらさら音を立て、君達を見送っているかのようだ。

交誼雅情の深意を表す。

誰知三隱寂寥中  誰か知らん三隠寂寥の中
因話尋盟別鷲峰  話に因って盟を尋いで鷲峰に別れんとす
相送当門有脩竹  相送りて門に当たれば 脩竹有り 
為君葉々起清風 
君が為に 葉々 清風を起こす     『虚堂録』
  
  

2011年6月 5日 (日)

天際日上月下

(てんさい ひのぼり つきくだる)

天の際に日は昇り、月は沈む。

天体の運行や自然の中に、真理が現れています。

天際日上月下、(天際日上り月下る)
檻前山深水寒。(襤前山深く水寒し)
  『碧巌録』第二則
天にありては、日は上り月は沈み、
地にありては、目前山深く水すさまじ。

この世一切すべてに真理は現れている。何をか疑う事があるだろう。

至道無難、言端語端。 (至道難きこと無し、言端語端。)
一有多種、二無兩般。 (一に多種有り 二に両般無し)
天際日上月下、          (天際日上り月下り、)
檻前山深水寒。          (檻の前に山深く水寒し。)
髑髏識盡喜何立、       (髑髏識盡きて喜何ぞ立らん、)
枯木龍吟銷未乾。       (枯木龍吟して銷ゆるも未だ乾かず。)
難難。                       (難し難し。)
揀擇明白、君自看。     (揀擇と明白と、君自ら看よ。)

2011年6月 4日 (土)

雲収山岳青

(くもおさまりてさんがくあおし)

雲が収まり、青々とした山がみえる。
心の曇りが晴れ、本来の姿が現れてくる。の意

日出乾坤耀。(日出でてけんこん耀き)
雲收山嶽青  (雲收まりて山嶽青し)
     『古尊宿語録』
お日様が出て、天地は光り輝き、
雲も収まり、山々が青々と見える

仏の智慧の光に、無明の闇が照らされ、
目前の真理に気付き、煩悩が去る。
真理会得を朝晴れの快活さに喩えています。

2011年6月 3日 (金)

行到水窮処

(ゆいてはいたる みずのきわまるところ)

ゆくゆく水の湧き出るところへ行き着く

行到水窮処   (行って水の窮きる処まで) 
坐看雲起時   (坐して看る雲の起きる時を
)   王維「終南別業」(三体詩)
川に沿って遡ってゆくと、いつしか水源に達してしまった。
腰をおろし、なにげなく見上て、雲が湧き起こってくるのを見ていた。

安閑無事にして、水と共に行き雲と共に去る無心の境界

--終南別業--                 王維 

中歳頗好道    中歳頗る道を好み
晩家南山陲    晩に家す南山の陲
興来毎独往    興じ来たれば 毎に独り行き
勝事空自知    勝事  空しく自ら知りぬ
行到水窮処    行きて到る 水の極まるところ
坐看雲起時    座して看る雲の起こる時
偶然値林叟    偶然  林叟(りんそう)に値(あ)い
談笑無還期    談笑して還(かえ)る期(とき)無し

中年の頃から いささか仏道に心をひかれ
晩年になり    南山の裾に家を建てた。
気が向けば  いつもひとりで出かけ
この妙境は   ただひとり賞玩するだけである。
ゆくゆく果てに 水源に行き着き、
腰をおろして  漫然と雲の起こるさまをみる
たまたま    樵(きこり)のご老人に出会うと
話がはずんで  帰るときを忘れてしまう

       

2011年6月 2日 (木)

遊魚動緑荷

(ゆうぎょ りょくかを うごかす)  坂本竜馬

池に遊ぶあの魚たちでさえ、蓮の葉を動かしている

幕末の動乱期、国の存亡の機に際し、
志ある日本人一人一人の気概の大切さを表している。

2011年6月 1日 (水)

鳥啼山更幽

(とりないて やまさらに しずかなり)

鳥が一声啼き去り、山はいっそう静けさ深まる。
寂寥感が深まる情景。

風定花猶落 (風定まって花猶落つ、)
鳥啼山更幽 (鳥啼いて山更に幽なり)
  宋代の王安石(1021~1086)の集句詩
風が止み なお花が落ち、
山に鳥の一声響き、さらに静かなり。

「入若耶渓(じゃくやけいにいる)」   王 籍(おうせき502~557)
艅艎何泛泛(よこう なんぞ はんぱんたる)
空水共悠悠(くうすい ともに ゆうゆうたり)
陰霞生遠岫(いんか えんしゅうに しょうじ)
陽景逐廻流(ようけい かいりゅうをおう)
蝉噪林逾静(せみ さわがしくして はやし いよいよ しずかに)
鳥鳴山更幽(とり ないて やま さらに ゆうなり)
此地動帰念(このち きねんをうごかし)
長年悲倦遊(ちょうねん けんゆうをかなしむ)

美しく飾った舟がゆらゆらと揺れて行き、
空と水は共に実にゆったりとしている。
雲と霞は遠い山間から湧き出て
陽光は廻流を追って水面を照らす。
蝉しぐれは、より林の静けさを感じさせ、
鳥が鳴き、山は更に幽境の深み増す。
ここにいると、里心も湧いてきて、
長年にわたる転々と旅多き身を悲しく思う。

※芭蕉は、この詩を心において、王安石が捨てた「蝉噪林逾静」を「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と詠んだといわれる。

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